「砂川事件判決が判断した」と言えるのはどこまでか・2

前記事のid:oktnzmさんに対するコメント返し。長くなったので記事に上げます。

 

 

「判断」の範囲

>1.裁判所による判断があったと言えるのは、ratio decidendiの範囲
>偽。「裁判所による判断」は判決全体である。

これ、本当は「先例拘束性のある判断」としたかったのですが、結論先取りなのでやめたんですよね。「先例としての価値を持つ判断」とでもすればよかったところです。ご指摘ありがとうございます。

 

>(判例法に基づいた見解に過ぎないが、)ratio decidendiの範囲はあくまで判決理由の内、先例拘束性のある範囲であり、当然「裁判所による判断」になるが、

逆裏対偶の話でいうと、ratio decidendiと「先例としての価値を持つ判断」は同値であるという趣旨です。今我々がしている議論は、そもそも稲田さんが自説を補強するために判例を引用していたので、判例が補強に足るような先例拘束性を有するか、あるいは先例としての価値を有するかということだったと思います。裁判官が一定の問題に対して示した意見全般を判断と呼ぶこともできるかも知れませんが、このような「判断」は、(先例拘束性を持つもの以外は)稲田さんが自説の論拠とできるようなものではありません。

 

>その他の部分が「裁判所による判断」でないという論拠になりえない。(裏は真ならず。)

上記のように同値であるという趣旨ですので、裏でも真であるという見解を示しています。
id:oktnzmさんの側で、傍論、補足意見、意見、反対意見が先例拘束性を持つという反証をしていただければ、私の議論はひっくり返りますから、それをしていただければ結構かと思います。

 

>(「判断」でないというのであれば誰の何だというのか?※最高裁では反対意見も提示されたりするが、総体として裁判所の判断だろう。そこだけ取り出すと問題だが)

上記のように、裁判官が一定の問題に対して示した意見を全て判断と呼ぶならば、判断と言えるかも知れませんが、俎上に載せる価値がありません。

 

>(ここはメインの議論ではないが詭弁の根っこである。)

詭弁とは穏やかではないですねえ。

 

「具体的な事件」と規範

>規範自体もあなたの言う「裁判所による判断(ratio decidendi)」に含まれるではないか。

そうですね。

 

>判例法に則ったとしても、その規範単体で先例拘束性を持たねば、以後の判決に用いることができないし、判例で提示された「具体的な事件」にしか適用できない(限定される)というのであれば判例法自体がなりたたないではないか!

おそらく、「具体的な事件」の意味を、判例で取り扱われた事件そのものと解釈されていると思いますが、私の方では、「日米安保条約憲法9条に反するかというところが具体的な事件」と述べており、ある程度抽象化していることがご理解いただけるかと思います。
この点は、判例の射程がどこまで及ぶかという問題そのものですね。

 

>規範としての判断→判例法としての先例拘束性(日本においては事実上のもので法的なものではない。周知だと思うが念のため)
>具体的な事件に対する判断(最終的には主文)→制定法としての法的拘束性(違憲審査については個別的効力説が通説)
>と解するのが妥当である。

それ自体に異論はないですが、規範の範囲に関する理解において食い違いがあるわけですね。

 

>つまり判例法に則って議論しているにも関わらず、「判断」とやらは制定法での文脈に限定して用いてしまっているという点で詭弁である。(瑕疵だと信じたいが)

あくまで規範の範囲として議論しています。したがって詭弁ではないですよ。

 

>なので結論部分を修正してあげると、
>「砂川事件判決は、制定法としては日米安保条約憲法九条に反しない判断したものだが、判例法としては自衛権の行使が憲法に反しないことを判断している。」
>2の議論から、稲田の発言は判例法における規範に基づいており、ratio decidendiの範囲内である。

ここは、さすがに無理でしょうというのが私の意見です。id:oktnzmさんの読み方は過度に判決を一般化しています。
id:oktnzmさんの読み方だと、例えばマクリーン事件最大判昭和53年10月4日)では「憲法第三章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものと解すべきであり」と判示されていますが、こう書いてあることを根拠に、「判例で明確に否定されていない外国人の権利、つまり外国人の地方参政権や外国人の国家公務員就任や外国人の義務教育を受ける権利は憲法上保障されている」という主張が判例とも合致するものだと言えることになります。そういう見解ならば一貫はしているのですが。

 

判決要旨の扱い

>そもそも自分が当初反論に用いたのは判決要旨の「安保条約の如き、主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有するもの~」の部分であり、「如き」という文言を使っていることから規範として言及していることが分かる。
>さて、ここで「判決要旨部分は傍論であり判例としての先例拘束性等々はない」という批判があるかもしれないので、

私はそのようには批判しません。判決本文ですらないものが判例になり得ると考えるのは誤りだと批判します。「判決中、…」とある判例の定義上、判決本文以外のものは判例になり得ません。

しかも、判決要旨部分は調査官が書いたものでしょう。裁判官が書いたものですらないのに判例として先例拘束性を有するなど到底考えがたいことです。

 

>元最高裁判所判事で東京大学名誉教授の伊藤正己の見解を引用しておく。
>「最高裁判例集に登載される裁判は、最高裁自身が判例として承認したものであり、裁判に関与した裁判官にとって判例的価値の大きいものと考えられることは当然である。(中略)とくにそこで判示事項とされ、判決要旨としてかかげられるところは、一般的な命題の形でかかれているためにその射程範囲について問題はあるとしても、判例としての拘束力をもつことに疑いがない。」(「裁判官と学者の間」P.59)

伊藤先生はもちろん偉い先生です。最高裁で種々の貴重な意見を書かれました。それは認めます。そういう、最高裁の裁判官を長く務められた伊藤先生のこの仰りようは、判決要旨だけ見てそれが判例だと即断してしまう人がいるから最高裁は注意しておきなさいよという忠告であるように、私には見えます。なんせ、砂川事件の判決のように、本文では日米安保条約のことしか言っていないのに、要旨で「如き」と付加されていることによって、判決が日米安保条約以外についても判断を示したとの誤解を招く危険性があるわけですから。
本文と矛盾しないように、要旨の「如き」を解釈すると、「安保条約の如き、主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有するもの」とあるのは、日米安保条約が主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有するという性質を持つ、という程度でしょう。この点、要旨第八項の主語が「主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有するもの」となっているのは、判決を過度に規範化している点でやり過ぎだと思います。判決本文の主語はあくまで日米安保条約です。

 

>よって砂川判決においても判決要旨の
>「わが国が、自国の平和と安全とを維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置を執り得ることは、国家固有の権能の行使であつて、憲法は何らこれを禁止するものではない。 」
>「安保条約の如き、主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有するものが、違憲であるか否かの法的判断は、純司法的機能を使命とする司法裁判所の審査には原則としてなじまない性質のものであり、それが一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外にあると解するを相当とする。 」
>等々の部分はratio decidendiであり、今現在、事実上の先例拘束性(判例としての拘束力)をもち、なんら個別的自衛権に限定したものではないということになる。

この読み方をしたとしても、日本による集団的自衛権の行使が「主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有するもの」に含まれるといえますか?そのように述べている箇所は、判決にはないように思うのですが。
あ、日本国憲法が個別的自衛権の行使を禁じていないことは、ratio decidendiだと思いますよ。統治行為論には関係ないと思ったので今回省きましたが。